先生。今日で先生が私の人生から不在になって3年11ヶ月と8日です。
無視という仕打ちよりも、殴打という暴力を。
私は非難されたい。先生を身勝手に抱え込む私を、先生の後ろ姿を眺めただけの私を。先生を好きになったことに罰を。
理不尽を愛して、不条理に屈したい。
ニヒリズムに唾を吐いて、隣人愛を無差別に説き、勘違いから始まった傲慢の話をしたい。
だけれど私の先生の話を誰が聞いてくれるだろう。そのように吐露したくなるような感動はない。
先生、今日はゴミを捨てました。先生、お元気ですか。先生、今何をしてますか、先生、生きていますか。先生、先生。
私は同じことを言う。中身のない空箱を重そうに持ち上げる。慎重に扱う。きっと中には壊れるものが入っている。私の行為は不自然ではない。私の行為は狂ってなどいない。
私は私が狂っているか、確かめている時間などないのだ。
頭にこびりつく灯油の焦臭さに蓋をする。私は正常である。土台のない家をせっせと建てる。私は正常である。
愛というのは高尚なものなのでしょう。愛というのはこういうことなのでしょう。
愛と執着はどちらの匂いも悪臭で、これが愛おしさなのだと気づいた。反吐に限りなく近いものだった。
私はあらゆる誤解を引き起こしながら生きる。
たくさんの愛の物語を読んで、愛のカタログを整理し、同一を掴もうとして挫折する。
もう私の人生に、先生は存在しない。たったそれだけの単調な中心が、現在の私の寄る辺なさに拍車をかける。
厳密に先生は死んだわけではない。しかしおそらく一生会えないのだ。先生はどこかで生きている。しかしおそらく、もう一生会えないのだ。
私の世界だけ、先生が死んだのだ。
来世の誓いもない。看取ることもない。私は傍観することもできない。何もない。先生がいない人生を愛するほかない。
私の祈る手は折れている。