泥のように眠った。
こうやって気づくのだ、私は前に進むことを、眠ることで気づくのだ。朝日よりも先に。
先生が私の世界から不在になって7年と9日です。先生。先生はご健在ですか。
わたしはいま、次に買うカーペットは何色がいいかと、夫と話しています。
夫は、なんでもいい。と言う。そうして私に体を向けて、きみが良いと思う色が良い、と言ってみせる。
この人は堕落を許す人なのだ。私のお腹がたるんでも、太ももに肉割れができても。豚のように肥えてさえ。
私は星の数ほどある、ふつうの主婦になるのだろう。起きたら新聞の片隅の干支占いを見て、ガーデニングの雑誌を買って、少しだけ知識を吸ったら、すぐに枯らす。
だけれど、風に遊ばれるカーテンの裏に。
踊るように茹だる豆の隙間に。
チャンネルを変えた瞬間の真っ黒な画面に。
私は先生を見るだろう。
夫が寝静まると、指輪を外してベランダの地べたに座る。
ひんやりとした虚しさが、両手足にぶら下がって身動きが取れない。
八の無い七並べをただ続けるような、手札をみて青ざめる。呆然として、唖然とする。
特別ではないベランダで、先生にとって特別ではなかった私は、特別とは思えない空を見上げてみる。そこに一切の星は無い。
私に本当のことなんてひとつもない。あるのは繰り返される偽物。本物を手にしても荷物になるだけだ。先生への愛は何ももたらしてはくれなかった。今でも両手足にぶら下がって、やはり身動きが取れない。
代わりに模造品の腕を動かす、実に上手くできた本物のような脚を器用に動かす。
先生と私の終わってしまった物語の不本意な続きが展開しはじめる。
腕と脚から網の目のような身体ができはじめ、動機が不在のまま、心臓がふざけたパニック発作のように動く。
そして完成する。模造品でこしらえた、上出来な私が。致命的な地図をひっぱり出して。
私にはできなかったのだ。だれかの手首を掴んで、私の話を聞けと命じることも、いつか自分の番が来ると思って、聞き役に回ることも。
私は語ることを最後まで学ばなかった。
夫が突然ケーキを買ってくる。見覚えのある箱を見て、私は喜ぶ。
素敵なケーキ、どこで買ってきたの?ああ、フールシェット。私1度もあそこのケーキ食べたことがなかったから嬉しい。綺麗なバナナケーキね。紅茶を淹れましょう。良い紅茶があったはずなの。飲んだことはないんだけど、あなたのお母さんから頂いたものだからきっと美味しいはず。でも見つからないわ。棚の奥も探したんだけど、見つからないの。きっと大切にしまってしまったから、出てこないんだわ。大切にしまってしまえばしまうほど、どこかに行ってしまうの。お湯がもう沸いてしまうから、いつもの紅茶を淹れましょう。私は濃いめ、あなたは薄め。さあ座って?
夫は笑顔で私を見つめる。私は夫の笑顔が見えないフリをする。
本当は濃い紅茶なんて苦くて好きではない。舌の横が痺れて、狂ったように喉が渇く。
噛み締めた顎にひどいシワがよる。それらを笑いジワにするために、皮膚のほんのわずかな動きさえ失敗するわけにはいかなくなる。一つも抜かすことなく。私は危機に陥る。
だけれど、私は私のために濃い紅茶を淹れる。生活に小さな罰を丁寧に散りばめる。
私は想像する。やせた女の死骸を。正確に腐り、端々が渇いた。私の顔と瓜二つの、苦い女の死骸を。
私は望んでいる。