私を好いている人を静かに置き去りにして、私が1人で雨の中、夜の高円寺を目的もなくふらついている時に、伏し目が先生にそっくりな男性を見た。
発狂に値しない、感情の爆発のようなものを感じた。それは不意に地雷を踏んだようなその衝撃で、私はあらゆるものを思い出した。
先生の鼻も口も、笑う時の癖も、先生の声も、突然私の中に噴き出してきて、私はその無意味な追憶を撒き散らしながら、辛うじて沈黙して、目を閉じ、過ぎ去るのを待った。
私を好いてくれている人は、私が居なくなったことに気づいて、探し回っているだろう、そして彼は私を見つけ出して、私から目を離したことを、謝るだろうと。私はその完全な寛容さの中で、どのように先生への気持ちを抱いていればいいのか。
彼はこのような不純な私を許すでしょう。私は許されるという苦痛を、余りにも、甘く見ていた。
思いがけない苦痛の中で、許されることに対しての遣る瀬無さに、私は絶望するのです。
私は彼の前で、泣けばよかったのでしょうか、真新しい少女のように、何かに傷ついたと、しかしその傷つけられた人がわからないのだと。新品の涙を、流せば良かったのでしょうか。
それができたなら、私はきっともっと可愛らしく振る舞えるのでしょうね。
屈折したものを論理的に掬い取り、言葉にするという自殺行為を、しなくとも、済むのでしょう。
私は謝ります、先生をいくら覆っても、消えてくれないと。
しかし私はそれを言いません、許されたくないのです。私は非難を受けます。それが、私にとっては当然の報いであると。わたしはそう信じている、そう信じたい。
好きだ、なんて言葉、どこまでも曖昧で、あまりにも不可解であり、それがどこから始まり、どのようにしたら終わらせられるのか。何一つ、私にはわかりません。
私に非を認めさせてくれる言葉を、私は待ちます。私の中には余りにも、多くの事物で埋め尽くされてしまった。
生き残った私を非難する人は、どこにいますか。