あと数ヶ月で先生が私の人生の中で不在になって1年が経つ。

今でも私の夢に先生が出てくる。

死ぬ前に誰を思い浮かべるかと聞かれたら、私は先生がいいと答えるだろう。はやくその問いの答えを変えなければいけないのに、わたしはそれができない。

先生の見事な不在は私に次第に馴染んできて昔のように毎日泣かなくなった。ただ月に2.3度泣くだけだ。

バルザックゴリオ爺さんを燃やしに10.10に自殺しようとした公園へ東海市まで行ったが、バーベキュー場の窓口に行ったら追い払われた。

その行為はとても演技性があり気持ち悪いと自分でも思ったが、その演劇じみた行為自体がどこかで私を癒してくれないかと、その癒しは忘れることではなくて先生を過去の記憶を身近に感じて傷口をもう一度開いて死にはしないかと自分に試みることなのだろう。

先生はもういなくて、私は生きている。

それはとても理不尽なものだが、憐れむべきものでもないのだろう。

ただ私はぼんやりと、先生のいない世界を生きている、それはどこまでも受動的で、生きているつもりはないが、どうやら私は生きているらしい。ということに似ている。

私は死ねないのだ、先生を失ったあの人生の発作のような衝動で死ねなかったのだから。私はこれから先、生きるのであろう。

ここのブログに辿り着く人はどんな人だろう。私はこの観覧数をみてこの中の1人は先生だろうかと、そうであったらどれほどいいかと、思って、やめた。